2009年12月12日土曜日

上昇スパイラル。

たくさんのひととお会いする中で
気がついたことがあります。


毎日仕事で同じようなことを同じようにやっていますが、
日日流れは変わっているわけで
同じことをやっている自分は
そこにとどまっているに等しく
取り残されていく


「焦り」ではなく
純粋に自分の立場、相手、場所は変えられないから
自分が進化していくしかないと感じたのです。

2009年11月16日月曜日

しばらくぶりです。

完全に朝晩逆転の生活をしております・・・。

最近ホルモンに興味があり(食べる方じゃなくて、人間のホルモンのこと)
自分ノからだの不調と照らし合わせると、、、まったくもって身体ってすごい!と
思う。そして身体も心も繋がっていることを知るのでした。


すべてが健やかではないと感じ
ある決断をしました。


これからどうなっていくのやら
楽しみでございます。

2009年10月18日日曜日

無題。


なにかこころをすっきりさせようと想ひ

赤坂日枝神社まで散歩。

思ったよりも近代的でした。

その後赤坂をぷらぷらして
246沿いの虎屋さんに入店。
ここの虎屋は一度も入ったことなかったから。

毎年この季節はここのこれを戴くのです(写真参照)
とってもお上品で美味であります。

そうして栗に癒されるのでした。

しかし、今年のはあんこが薄い求肥で包まれて
おりまして・・・マイナーチェンジでしょうか?

2009年10月13日火曜日

大阪、アゲイン。

朝六時(始発)の新幹線で大阪へ。
お茶を飲む暇もなく
そこから地下鉄、電車を乗り継ぎ
狭山市(さいたまではないらしい)へ。

十時から五時までほぼぶっ続けで
セミナーを受け

また新大阪へ・・・。
おひとりさまde美々卯・・・とも
考えたが、あまりの疲労感で
とにかくおうちに早く帰りたい(泪)と想ひ
定番ながらも
点々の餃子と蓬莱551(?)515だっけか??
の豚まんを買ってのぞみちゃんに。

ばたんきゅーとはこのことか。


お仕舞い。

2009年10月4日日曜日

名月を目前に。

新しいことがはじまるのは
とてもパワーが必要ですが
どきどきします。

そこにはやはり壁があったり
するものです。

でも自分の肉体と人生は
自分のものであり
他人が責任を負ってくれるものでもないので


自分で決めて、
情熱に従うのみなのであります。

2009年9月24日木曜日

金の匙。


最近はまっているもの。

ヨーグルト味のアイスには滅法弱い。。。
そして見つけてしまった(汗)
甘すぎず、酸味もあり(酸味を消してしまっているものが
多い中)
しかもローファットが売りらしい。

美味しい(泪)毎日食べたいなぁ。



今日の画像:こんなに食べても116キロカロリー。

2009年9月22日火曜日

無題。

すっかり秋です。

このあいだ衣替えをしたというのに
もう奥から引っ張り出して着なきゃ。


今年最後のとうもろこしを頬張り

明日は今年二回目の秋刀魚が届きます。


そんな単純なことばかり考えて過ごしたい
今日この頃。

2009年9月6日日曜日

文化。


前から気になっていた
甲州印伝の印鑑ケースを購入。

印伝って印度伝来だから「印伝」
まあ木村拓哉のキムタクと感じなんですって。

昔は鎧などに施されていたらしい。


銀行印用にやっぱ色違いも買おうっ。

2009年8月30日日曜日

いってみた。


勘でいこうと思い
なにも考えずに
ふらふらと向かったので

案の定、

迷子(泪)

でもなんとか辿り着く。

着いた時間が遅かったので
お札も買えなかった・・・。
また昼間に行かなきゃ。


今日の画像:うちの氏神さま。

2009年8月29日土曜日

本日。

昔何故だかわからないけど、
とてもすきで意味もなく足繁く通っていた
近所の神社がありました。

鬱蒼としてるのだけど
なんだか気分がいいのです。

いま思ふと
その神社、氏神さまだったのでしょう。



今日は引っ越してまだ氏神さまにご挨拶に
行ってないとふと思いまして
氏神さまを訪れてこようかと。

このへんの氏神さまがどこなのか分からず
悶々としておりましたが、「東京神社庁」という
とこがありまして、そちらに電話したら
あっさり調べて教えていただきました。


ゲリラ雷雨に遭わなければよいのですが。。。

2009年8月21日金曜日

時には女子的に。

アレキサンダーワンの新作バッグ・・・
日本では手に入らなく
海外から衝動買い。


そして、
ずっと渇望していた
ヒマラヤクリスタル(おおもの)
を買ってしまいました。
いくつものクリスタルがあわさって
なんといってもてっぺんにレインボーが入ってて
とてもステキ☆

本日は抱っこして寝る次第であります。


意識が宿る石・・・なのです。

2009年8月18日火曜日

無。

あるひとが言った

「生まれてくることは選べない。
死ぬときくらい自分で選びたい。」

時代、環境、親、容姿、生きなきゃいけないということ。
選べません。

わたしは安楽死を認めるのは賛成派である。
世の中でどんな議論を醸し出しているかは分からないけど、

少なくとも
自分が今世の自分を終えるときは自分で決めたい。
しかし自分で決めても死なせてくれないこともあるのは
承知ですが。

2009年8月14日金曜日

大阪。ほぼ初体験。

特に見るモノもないので食い倒れを目的に。

最初の印象は、自転車の数の多さに
ここは中国ですか、と問いたくなった。
マナーもめちゃめちゃだし。

あとびっくりしたこと、

すごいスピードで自転車でやってきて、
見も知らぬひとにすごい剣幕で「どこ見てあるいとんじゃ、あほ」
というその神経。。。子供を二人乗せた男性でした。

そういう親は絶対理不尽な理由で自分の子供も怒鳴り散らします。
他人に対しての態度も子供はみています。そしてそれが当たり前
のことだという刷り込みが起こるでしょう。

そういう親に育てられた子供は歪みが生じます。どのような形
かはひとそれぞれです。同じようなことを他人にするか、
もしくは勘のいい子なら親が反面教師になる。でもその子は
親のことは嫌いになる。

いずれにせよ、様々な形で連鎖します。


一度ではなかったびで
かなりげんなりしましたし、衝撃でした。


東京よりもいい意味でも悪い意味でも
活気があり、人が生きているという印象を受けました。


東京と大阪。
低温と高温。


感情を出さず溜め込み、前触れなく人を刺してしまう。
感情をすぐ露わにして、喚き散らし人を刺してしまう。


そのような違いでしょう。


どちらがいいともわるいとも思いませんが。

2009年8月2日日曜日

つねに

競争社会の中に身を置かざるを得なかった気がする。

それはたぶん自分が望んだことではなかった。


昨今の様々な崩壊を目の当たりにし
自分の生き方含め
リセットをできるチャンスと捉えるか
しがみついてそのまま崩れるか


選択のときが訪れた。


ほんとの自由への第一歩。

2009年7月31日金曜日

無題。


田舎に住んでいるような気持ちです。


蝉の声しかきこえません。
こんな都会の真ん中なのに。


最近よく人が死にます。

そんなに大騒ぎすることでしょうか。。。
解き放たれたかったのだと思います、
精神がではなく魂が。

それは苦しみからかもしれないし、人によって違うと思いますが。


今世での学びは終わったわけですし、それ以上は生きられない
ので

お疲れさま!しばらくおやすみください〜
という感じではないでしょうか。



今日の画像:昔から一緒のラスカルと新参者のチェブラーシカ。

2009年7月21日火曜日

無題。

いやなことはいや

それはもう自分の中には取り込まない。


他人は他人なりの見解を述べるだけ。

誰が何を言おうと、
自分は自分でしか守れない。


だから自分で決めていけばいいと思う。
もちろん自己責任で。

2009年6月22日月曜日

気がつけば

さまざまことが重なることがあります。
精神的なこと、肉体の不調。
その中から何を学びどのエッセンスを抽出しようかと
考えます。

たくさんのひとがいて、ひとだけでなく情報や世間の空気など
包囲されている気分でいました。
しかし自分のコアを変えるのはもっと小さい世界なんだと。
たとえば家族や少数の大事なひとたち。
人生はそれだけで完結できるというか、
真の繋がりを持つのはそれだけでも貴重で大変なことです。

とても大事なのです、物質的にではなく、精神的に。

だからわたしは乱されることを非常にきらいます。
特に波動を乱されるのは。乱されない自分になるのが
当面の目標です。
いまやひとを判断するのに、時間も必要ないので
どうかわしていくか。
といってところでしょうか。

2009年6月14日日曜日

なむなむ。

生まれてきた時点で死ぬことは約束されています。
矛盾してるようで、必然であることは誰しも理解して
いることです。だから多かれ少なかれ「死」について
みな気になるのです。

目の前に生と死があって死を選ばなかったら、
それは果たして生きることを選んだことになるのだろうか。

生きたいと切に願うのとただただ恐怖感から死を選ばない
(選べない)のは違う気がします。
食事をして睡眠をとって呼吸をしてれば
それは生きてることになるのだろうけど、
より包括的且つ叙情的な意味に於ける生きてる定義でいうと、
死んでるようなひとは多い。


感じるということが生きているということ。

2009年5月30日土曜日

むだい。

現在、飽和状態でございます。
浮かびあがる感情をひとつひとつインベーダーゲームのように
殺していく作業にほとほと疲労気味なのです。
殺しても殺しても自分から消えていかないことは消えていかないし、
何故ゆえ?と考えるのも答えがなく馬鹿馬鹿しいと感じるようになってきました。

他人がどう感じているかはわかりませんが、
街にいても、周りを見回してみても
わたしにとっては目眩がするほど情報が多すぎて疎ましい。

クリアになる、
自分らしく生きていくためには
今がとてもフィットしていない、、、
という由々しき事態であります。

無論、他人には具体的な自分のおもひを公開したりしませんから
あまり理解を求めているわけではないですが。


常に変革が起きており、それは悪いことではない。
その変革に気付き、ついていけるかいけないかが問題です。

ひどく自分の心象が乱されているのは意味があることとも感じています。
それは自分自身の変革というよりも、
なにか抗えない大きな波に乗るための準備のようなもの。

それを感じとっているひとは心が波打っているのかもしれません。

2009年5月25日月曜日

無題。

不満足なひとよりも
満ち足りてしまっているひとのほうが

より死に近い。

2009年5月12日火曜日

阿修羅さんは不在。


「わたしはだめな子だ」
とこんなに刷り込んのは一体誰なんだろうか・・・
記憶にないのが困ったものだ。
自分にとって必要なことあらば潜在意識は絶対に覚えているはず。

いまのところお陰様で自分でも毎日
そのような刷り込み、取り込みを繰り返している。

探っていく作業をしていこうと思う。

何もかもが垂れ流されているこの社会が鬱陶しく
破壊的な気持ちになる。

モノを創り生み出すことは
何かにいい影響を受けて感じることも大事だけど、
もっとコアなところでは

やはり

自分をどれだけ内観できるか、、、
なのではないかと最近よりおもふ。

だからわたしは垂れ流されている
ものには興味がない。むしろ吐き気がするし、嫌気がさしている。

必要なことは自分で拾い上げるし
動物的に分かるものだ。

生きてくことも
創作することも
元を辿れば
同義な気がする。


これは戦いです、一生通じての。



今日の画像:東大寺はやはりすばらしかった。
イケメン阿修羅さんは上野にいらっしゃるとか、、、

2009年5月3日日曜日

無題。


世界平和を願う。



とてもぴんとこない響きだった。


大それたことでもなく、
まず自分が此処にいて
人々が個個にいて
繋がってたり、点だったり

それに感謝するということ。


そしてそこで改めて気付くのは
自分にはそんなに必要なものはないということ。


今日の画像:懐かしき風景。富士は元気か。

2009年4月18日土曜日

霞ヶ関



を通っているときにふとまわりを見渡したら
そういえばさくらが散ってしまったなぁと急に思った。

散ってしまうと跡形もなく、いつも通っている道なのに
どれがさくらの木だったかさえもおぼろげである。

なんとなく生きるってこういうこと?



今日の画像:津久井湖城趾公園にいきました。(かなり前)

2009年3月30日月曜日

無題。

ふつうのおんなのこになりたいだけです。

誰も証はくれないのでしょう・・・
自分が自分でよいであるという。

2009年3月23日月曜日

ごむさた。

今の自分がしんどいからなんとか変わろう、
とか受け取った感情をすり替えてそうでないと思い込もうとした。

ほんとの意味で迷いが皆無で変われるということは
本来の自分に戻ってくことなのではないか・・・と思い始めた。


したくないことはしない。
やりたいことはやる。

殺したいと思ったり死ねばいいのにと思うひとがいる。
別にこのような感情を抱くのはそんなに悪いことなのか。
まあ普通ではないかもだけど、人類にとっては普遍的なことではあると思う。
好きと同じくらい嫌いがあっても当然だ。どうしようもなく好きってのが
あって、殺してしまいたいくらい嫌いがあってもおかしくない。

汚い感情を抱いたとしてもそこで自己嫌悪に陥ったりしないで
踏みとどまれるといいのだろう。垂れ流しというやつ。


一番はそのような感情を抱かない環境を自分で作ってそこに
身を置けるようにすること。

2009年3月8日日曜日

突然に

訪れた。

タイミングが合わないというのは
悲しいです。

人生を形成してるほとんどがそんな感じ。。。


運命なのでしょうか。

2009年3月3日火曜日

無題。

女子より男子のほうが平均寿命が短い。

女子より男子のほうが人口が多い。

生物学的に男子のほうが弱いから常に男子のほうが多いらしい。
自然の法則ってすごいなぁ。

しかし考えてみると、男子は余るという事態が起きる・・・
つがいにもなれず、自分の子孫すら残せない
所謂誰からも選ばれない男子が出てきてしまう。

今流行りの草食系男子とはまさしくそれを良しとする(?)
現在の流れであろうか。。。
各々の生き方だから良いとか悪いとかではないけど・・・
つうかそう考えると男子も男子で大変ですねと申し上げたいところです。

世界には経済的理由と女子の地位の事情から一妻多夫はないらしい。
一夫多妻だって結局、魅力的で経済力がある男子が
多数の夫人をもうけるから、余り男子は減らない・・・と・・・。

やまとなでしこでさくらこが
「なんでルックスや性格で男を選ぶのはよくて、
お金で選ぶのはおかしいと言われるのか」と宣っておったが、
わたしも強ち間違いではないと思う。
ルックスなどは元来備わったものが大きいけど、
お金は努力である程度稼げるもの。
お金を与えられるというのは世の中で認められているという
ひとつの一番分かり易い証みたいなものだし。

お金はすべてではないけれど、
この大不況だからこそ男子は経済力!かもよ(笑)

2009年3月1日日曜日

崩壊。

男性は純粋できれいだと言っていた女性がいた。
ほんとに素晴らしいひとに出会ったのか、
子供の頃から大人になるまでもなってからも健全なこころで
過ごせてきたひとなんだろうな〜と。

真意まで分からないし、興味もなかったけど、、、
確かに女性のほうが打算的だしよりよくを求めて生きてるとは思う。


・・・。


そんな世の中きれいか?人間ってきれいですか・・・?
繕って生きているだけのひともいると思う。なぜかというと
そちらのほうが行きていくの楽だし、面倒くさくないから。
吐き出したり、曝して生きていく方がよっぽどしんどいとおもう。
自分なりに想定内に傷つく。


いい機会だし、やはり一度全部めちゃめちゃに壊れてしまって
零になったほうが、生きやすいかも。

2009年2月24日火曜日

無題。

いやだと感じることはしたくない。
感じることをキャッチし表現するのは悪いことと思わなくなった。
別に誰かに迷惑をかけてるわけでもない。
いままでの自分だと押し込めて沈めていただろう。
そのうちに自分の中に生じる「いや」という違和感を
明確にすることさえもできなくなってしまっていた。

臭いものには蓋をしろではないですが・・・
断絶とは自分のこころをプロテクトするという大事な行為だと思う。

最終的に自分を慰めてあげられるのは自分でしかない、
こころの叫びに気が付いてあげられるのも。
どんなに醜く、異常なことを考えていたとしても
否定しないで受け入れてみてあげないと、
K点を超え溢れて行き場がなくなってしまうのです。

2009年2月22日日曜日

鬱憤。

自分のためにがんばろうと決めた。

こんな経済状況だけど、今生きていて
自分は上昇している気分。
そして、一緒に上昇していけると信じている
仲間もいる。それでいい。

安易にわたしのことを決めたり、評価をして
ほしくはないです。別に分かってもらおうとか
認めてもらおうと思ってはいません。
わたしが決めて判断を下すこと。
ひととは違う、わたしだけでなくみんな違う。
生きてきた上で、組み込まれてるデータも違う。
改ざんされてるひともいるんです、世の中には。

不必要、不愉快、大嫌いはわたしの周りから、
わたしの記憶から、この世から
消えていくだろう(希望的観測として)
そう、わたしの中から取るに足らない、
存在としても認識できないくらいの位置づけに
なるという意味ですが。

2009年2月19日木曜日

人生切り替えのとき。

自分に変化が起こる節目節目に必ず会う人がいる。
なんとなく会うと、お互いにぴんとくるものがあり
少しずつ変化が訪れている。

ひとつ自分の情熱に従い、行動を起こすと物事が
がらりと変わってしまう。渦中にいるとすごい変化に
気がつかないというか、自分ではどうすることもできないから
なんとなく笑っているだけという感じ。。。

ゆっくりと自分のペースで、しかし流されながらいきます。
流されても、自分のこころの真ん中で分かっていれば
そちらに向かうのです。

2009年2月17日火曜日

無題。

ひどい風邪を患ってからマスクにはまっています。
完治した今でも、外出するときは装備しています。
顔の半分以上が隠れているわけですよ。
ひとは多分全体のバランスで顔を認識しようとするから
、マスクをしてるとひとと目が合わないのです。
つまりひとにあまり見られてないということです。
じろじろ見られることも評価されることもないわけです。



みな恥ずかしげもなくよく自信過剰に生きてるな、、、

2009年2月14日土曜日

無題。

どうすれば満たされる?
何が足りない?
何かで埋めようとするのが正しいのか。
と考えてきてはみたものの。。。

元々が足りてないのだ。
自分の存在意義を認められたという記憶がないから、
こころに深く刻みこまれている。

今の自分は決して正しい栄養素で形成されているわけではない。
「ああいうふうになりたい」でなく
「ああいうふうにはなりたくない…なっちゃいけない」
など負の要素をひどく嫌ふ自分が自分を証明するために、
自分のほんとを抑圧して完成したシロモノであります。

わたしは金の鯱が嫌いです。
土地柄のすべてを象徴してるように思えて・・・。
深みや奥行きをよしとするのでなく、
まやかしにも塗り重ねていってしまう感覚が。
何故嫌いかは自分に重なる部分が多少なりともあるからではないか
と最近思うようになった。
自分にとっては虚像のような自分で、
ありのままでは受け入れてもらえないから、
お望みどおり、金粉を纏うのだろう。

2009年2月3日火曜日

無題。

自分のこころの領域を侵され、
感情を揺り動かされることをきらふ。

外部からの情報を自分に何も取り入れなくするのは
ひとつの自己ヒーリングだそうだ。

何も感じたくないし、
醜いこころが身体までもを蝕んでゆくのも阻止したい。

昨今は友達や関係あるひとは別にして、
街ですれ違う知らない人々、
嫌いなひとたちが人間として認識できない。
昔、発表会などで緊張を和らげるのに
「みんなじゃがいもだと思えばいいのよ。」
と言われた、正にその感覚に似てる。

今まで果てしなくこころに垂れ流してきたから、
もうこれ以上受け入れられなくて自然と
シャットダウンしているのだろう。
自分の中で自然淘汰されていくのが一番いい。

2009年2月1日日曜日

無題。

「英雄とは、自分のできることをした人だ。
凡人は自分のできることをせず、
できもしないことをしようとする人だ。」 ロマン・ロラン

自分を制限するのは自分でしかない。
気付くのも自分でしかない。

決めるのも自分。

2009年1月27日火曜日

無題。

ふわふわしております。

飛んじゃってたり
急に正気になったり

敏感な人と会うととても心配されます。

大きなものに捉えられていて
どんどん情報を受けて、すべてが
自分の中で繋がり始めたのです。

自分は自分でなくても
特に何かが変わるわけではないのかな。
努力しても意味ないことはたぶん意味ない。

もっと自分の意識だけを意識していければ
もっと上昇できるとおもふ。

2009年1月24日土曜日

無題。


全然考えたくも感じたくもないのに
残酷です・・・。

毎日とにかくたくさん寝てます、
眠ってます。起きても頭が動き始める前に
また眠ります。

あいとか誠意って
見えたり見せたりするものでなくて、
相手が喜ぶことより
不快に感じることをいかになくせるか・・・
どれだけ自分と向き合って、相手のことを
自分の中で受け入れられるか、なのかなと思う。

言うならば、人生の足し算ではなく引き算。
どこまで引けるか。
失っていくことのどこまでをよしとするか。

そう考えると、
わたしにはあいも誠意もたぶんない、
男性に対して。


今日の画像:信号待ちでふとみると40000。

2009年1月22日木曜日

無題。

即物的とまで言わなくとも、
いまの自分に必要なことただそれだけを考えよう。


いろんなひとに会ってみよう、赴くままに。
そこでより自分に必要なエッセンスがあるかもしれない。


個である事実を受け止め生きていかないと
いつどうなるかが分からない。

2009年1月19日月曜日

無題。

興味があるいろんなことをやってみるのは
すきだけど、

心から「うれしい」「たのしい」と感じて
やっているわけではないと分かった。

一種の強迫観念に駆られてとりあえず
やれることは全部やらなきゃって思うだけ。

わたしはわたしとして生きているわけですが
これだけたくさんのひとに囲まれていると
様々な人間がいて、心ない言葉を発したり、、、と
そういうわけにはいかないと感じることが多いのです。

昨日あるひとに言われました。
「別にそこまで苦しい思いまでして、それをしなくても
誰にも迷惑はかけてないよね?」
確かに、おっしゃるとおりですね。

単なる一種の自傷行為なのでしょう。

でも止められないのですから。

2009年1月10日土曜日

無題。

自分で作ったおむすびを食べたいと思いました。
ただ平穏にぱくっといただきたい・・・と。

世の中は百年に一度の恐慌だなんて騒がれております。
わたしはその手のことはあまり分からないですが、
ただ「過剰」が過剰を呼んで生んでいる結果な気がします。
当たり前をわすれてしまったがために
当たり前のことが崩壊しはじめているだけ。
日本人特有のよい意味の質素さや情緒的なこころをどこかに
みんな置き忘れてしまっている。

大きな世界も小さな自分も起こることは同じなのです。

こころを伝えるのは難しいです。だからツールとして
言葉が与えられています。生きていくために紙だけど
お金があります。それで生きていってます。
振り回されて破綻することは実に簡単なのです。
壊れることも、壊されることも一瞬です。
世界もこころも。


ただ元に戻っていけばいいのだと。

2009年1月3日土曜日

締めたいのです。

毎年、この時期になると去年一年を振り返ってみます。

今年は人生で一番の変革の年だったと思います。

変わる、変わりたいというのはとても勇気がいることですし、
辛く苦しいことに直面することもたくさんあります。

変わらないことは楽なのかもしれません。
ただ、私はこのままでは同じことを繰り返してしまうこと、
穏やかに幸せに人生を過ごしていくことが
できないと気がついてしまったのです。

直感で動いた年でした。
行きたいところには行ったし、会いたい人には会いました。
環境やそれに伴う自由があったからできたとも思います。
ずぼらな私がここまで探求しようと思ったのも不思議です。
それまでは今日に繋がる準備期間だったのだと思います。

もう今までの生き方は充分だろう。。。ということでしょう。
今までも間違ってなかったと思えました。
一部受け入れられないことはありますが。。。
起こったことは変えられないから受け取り方を変える
トレーニングとセラピーが必要だと言われております。

感じること、思うことは全部やってみました。
チャネリング、ヒプノセラピー、レイキヒーリングの勉強で
自分とこんなにも対峙したのも初めてでした。


気がついて、確信に変わることで
自分の行動の原因を追及しようと試みました。



Charleneの「I ’ve never been to me」という曲。
日本でもCMに使われたりしてみな聴いたことある曲だと
思います。邦題の「愛はかげろうのように」というのはちょっと
いかがなものかと思いますが・・・。
歌詞の内容はたぶん激しく賛否両論を呼ぶと思いますし、
わたしもあまりすべてにピンときたわけではないので
省略しますが。
対訳では「いろいろな場所へ、パラダイスみたいなところにも
行けるところは全部行ってみたけど、ほんとのわたしが見つからないの」
とされているのが多い。
わたしは前後の歌詞から勝手な解釈ですが
「自分の行き着きたいところには行き着けない」と受け取りました。
それはあくまでも自分の中のことです。自分の中にしかありません。
どんなに努力をしても自分の真ん中には行き着けないのですね。
だからひとは生きていくのか、
苦しくて死を選んだりするひともいるのか。
と思います。

わたしは今までの人生で自分が自分でいいんだ
と思えたことは一度もないです。
行き着けないどころか、行き場がないのでしょう。